詩文『謙虚に生きる教訓』
『謙虚に生きる教訓』
肩に力を抜いて
正直に 素直に
書きたいと思います
今から書くのは
詩にもならないかもしれません
闘病記になるかもしれません
自分が頑張ったとか
自分が努力したとか
苦しいとか
そういうつもりは 最初からないのです
今から正直に素直に
書きたいと思います
肩に力を抜いて
《謙虚に生きることを忘れないように
と思って書いた文章です》
ただ長い文章ですし
シリアスな闘病記の一部分になってしまいましたし
ほんの少しだけ読んでいただければありがたいです
2023年5月5日のことです 62歳頃
私は大阪で倒れました
野外コンサートに行っていたのです
5月5日 救急車から病院の
ベッドの中に私はいました
夕方だったか 夜だったか
ベッドの中で声が聞こえました
おそらくメガネをかけた
中年の小柄なお医者さんでした
「今から4か所 手術します」
その場所からおそらく私は
つまり 集中治療室だと思うのだけど
そこから手術室に入ったと思います
「今から4箇所 手術します」
それが最後の言葉でした
ゆっくりとした言葉で
メガネの男性の人のお医者さんの声が
これが5月5日の夕方か夜の話です
🌿
私は目が覚めました
夜だったか 夜中だったか
明け方だったか
部屋が暗かったです
誰かがいました
私はまたあのベッドに寝ていました
5月5日にあったベッドとも同じです
誰だろう?
誰かいる
暗がりの中で
人の気配があって
ベッドに寝たまま
右側を見ました
ベッドの下に
しゃがんでいた人がいます
女の人でした
おそらく看護師さんだと思います
私は尋ねました
「何してるんですか?」
「尿を取り替えているんですよ」
おそらく 尿だったかおしっこだったか
何かを取り替えるというのは
聞こえました
この女の人が
何か そういう作業をしていました
私は次のことを尋ねました
「今日は何日ですか」
私は5月5日の夕方か夜にしか記憶がなかったのです
「今日は9日ですよ」
5月9日だったのか
9日だったのか
どちらかの はっきりした声で
答えてくれました
今日は5月9日だ
何日間か眠っていたのだと思って
前の奥さんの誕生日が
翌日の5月10日だったから
あー そうか
今日は5月9日だと分かったのです
そして私はまた眠りました
翌日だったか
その前後で
おそらく 酸素マスクを取り外したんだと思います取ったのだと思います
ここの記憶はなかったけれど
おしっこのための管を抜くようなことをやったのだと思います
紙おむつをしていたんだと思います
記憶にあるのは
集中治療室のベッドの中に寝て
左側に大きな計量機器があって
テレビで見たことがある
心電図とかいろんなものがあって
緑色で数字が出ていました
目が覚めて思ったのは
私は点滴があったと思います
たくさんの線がいっぱい 左腕だったか
頭の毛が剃られているのが分かって
そこのところに大きな絆創膏が貼ってありました
でもそこが手術したというのは分かりません
看護師さんが女性の人が2人
男性の人が2人か3人
周りを見ると
目の周りが 事務局のような部屋です
右側 その次にベッドが並んでいました
斜め向かい 右にベッドが一つありました
誰かが寝ていました
この時 初めて 集中治療室だというふうに納得したのです
食事が出てきて
左利きだったけど
右手でスプーンを食べたと思います
でも食べることができない
「食べないと また 点滴になるよ」
私は何か食べなくてはいけないというのがわかったのです
🌿
5月10日か11日か12日あたり
ある人が来ました
ベッドの横で
椅子に座って
まだ若いぽっちゃりとした女の子が
私に ニコニコしていました
「これ分かりますか」
私はトランプのような大きさの紙に
模様があったのです
それは 例えば 花であるとか
車であるとか
鉛筆とか
腕時計とか
その挿絵は分かりました
けれど 言葉が出ないのです
しゃべることはできたのです
けれど名前が出なかったのです
「分かりません」
「これは分かりますか」
若い女の子がニコニコして
私に尋ねました
集中治療室の話です
「分かりません」
「これは分かりますか」
いろんな絵を見せてもらいましたけど
もちろん 内容はわかるけど
名前が出てこない
車ですとか
花ですとか
腕時計とか
名前が出てこないのです
そんなことでも
どうでも良かったのです
私は今どこで何をしているのだろう
集中治療室の中で
何日目だったか
ベッドに寝たまま
滑車で数人かで
周りは慌てたような様子で
私を寝たままの状態で運んでいたのです
どこに行ったのかわからないのです
気がつくと
集中治療室のあの部屋でした
左手の手首のところに
白い手錠がベッドに脇に
つなげられていました
おそらく 左手が
大きな絆創膏に
触らないように
一点拘束だったのです
それは以前仕事で病棟の廊下で立っている仕事があって
その時 病室の中の一点拘束か二点拘束を見たことがあるからです
夜遅くなったような気がして
まだ若いお医者さんが
メガネをかけて
肩まである髪の男の人が
手錠を外してくれたのです
私は左手で頭の大きな絆創膏を触らないという意味が分かったからです
何が起きたのか 今でも分かりませんけどおそらく 危ない時だったと思います
そして過ぎて
4人部屋になりました
その時
初めてスマホをもらいました
それで Line ができたので
その時にやっと日時がわかったのです
2025年 現在
私は色々 この2年半ぐらい
いろんなことがありましたけど
こうやって普通に暮らすことができる
言いたかったことは
一つだけです
私は今生きている
そして 謙虚になって
いることも気がつくのです
私はあの時 危なかったと思う
周りの人から
「頑張ったね」
とか
「苦労したね」
とか
そのことを伝えたいことではないのです
私は今生きている
大げさに言えば
私は今生きている
あの時私は死にそこなった
大げさに言えばそういうことになります
だから 来年の春
私だって生きてるかどうかも分かりません
いつもそうやって
時が続いて今
あの集中治療室のことを思うと
何が起きたのか
それは確かに後から
脳出血後遺症という言葉も覚えたし
失語症
左半身麻痺
リハビリ
高次脳機能障害という言葉も覚えました
全部今まで知らなかった言葉ばかりでした
だから当たり前に生きてるという風に思っていない
しかし 慣れてくると
当たり前に食べて当たり前にうんこをして
当たり前に下手くそですけど歩いて
車椅子から歩けるようになって
たくさんの看護師さんリハビリの人たち 介護士さんたち 友達 家族みんなのおかげで 今私は生きているのです
謙虚に生きなければいけない
と今日強く思いました
過去の記憶は私のためです
謙虚に生きることを
私は忘れてしまっていた
当たり前に生きてると思っていた
しかし 2023年5月5日からの数日間の集中治療室は
私が生きていても死んでいてもおかしくないような時期だったと思います
けれど 私は生きる方にやってくれたのです
謙虚に生きる
このことを
「大病したんですね そっから復活したんですね」
そう言われたことがありましたけど
大病と言っても自分がやったかどうかは今でもわからないのです
復活の意味も分かりません
努力も頑張ったも
実感が一つもないのです
ただ 当たり前に
生きるのが当たり前だと
思ってはいけない
謙虚に生きる
これは私の伝えたいことです
おそらく同じような経験がある人は
多かれ少なかれ
同感する人もたくさんいると思います
それでも
生きている
意味ではなくて
食べること
生きること
食べること
生きること
素直に みんな寝てゆきます
それが繰り返す
くらしとは
生きる意味ではなく
食べること
生きること
食べること
生きること
謙虚に生きることを忘れないように
日々食べて生きること
死にそこなった人間は
みんな 謙虚だと思います
そしてみんなに感謝
季節に感謝です
それを伝えたかったのです
(※2023年5月以降から失語症の状態で詩を書いているのでそういうこともわかるのだと思います 変な言葉で書いているのでそのまま推敲しないようにしているのが大事だと思います)
(写真は4人部屋になって
車椅子でベッドから移動させてもらい
テレビがある小さな部屋で撮った 大阪脳神経外科病院の西側の写真です 後は 生活リハビリの若い男の人の鈴木先生に車椅子で外に出してもらった時の写真です 2023.5.中旬〜2023.5.28日撮影)
2025年10月23日午後4時10分 64歳
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