詩 『言葉さんありがとう』
詩 『言葉さんありがとう』
64歳になりました
よくここまで生きてきたと思います
振り返れば
幼稚園の時から
歌が始まり
歌が好きで
小学校5年生ぐらいに
面白いなと思って
《だじゃれノート》を77個作って
台所で母に見せたら
「これは文学だよ」
と初めて褒められました
《文学》の意味もわからず
小学校6年生ぐらいで
ギターを始めた
フォークソングは楽しく
変な歌がいっぱいあって
歌謡曲だけではなくて
変なフォークソングがいっぱいあって
「自由でいいんだな」って
歌と音楽と言葉が始まっていたので
演奏も始まり
歌から音楽になり
本を読み始めたのは
23歳ぐらい
遅咲きの青春
三島由紀夫を読んで
ある日の朝の近鉄電車の中で
大和川を通ったあたり
窓の外を見て
「言葉で世界を全部書くことができる」
と確信した
32、3歳だったか
まだ 原稿用紙で書いていて
岩野岩三郎(がんざぶろう)
という作品を
夜遅くまで書いて
朝起きて原稿用紙の1マスのところで
弱った蜂が倒れていた
気の毒だと思って
窓の外の鉢の土の上に
バナナを少しだけ置いて
蜂を置いといた
蜂がバナナを食べていた(吸っていた)
夕方 仕事から帰ると
蜂はいなかった
「よかったな 生きててよかった」って
その後 窓の右上で
蜂が巣を作った
そうか
と思って 私は洗濯物をそこで干しても
蜂は刺さないとわかっていたから
宮沢賢治は
明け方まで2000枚 原稿用紙を書いて
原稿用紙の言葉が
宮沢賢治に向かって
全員が起立して
お辞儀をしたという
そういう 寓話
言葉は生きている
詩人ねじめ正一が こう書いていた
「言葉を使うなんて そんな失礼なことはできるわけがない 言葉を使わせていただく」
そのエッセイはすぐに胸に入った
言葉は生きている
そのすぐ後に
言霊という言葉を知って
でも言霊はよくわからなかった
今はわかる
私は64歳まで
寂しく 孤独であっても
常に言葉が一緒に横に
いてくれた
苦しくても
言葉が一緒にいてくれた
62歳の時に
脳出血になり手術があって
3日間意識がなくて
目が覚めて頭の包帯だらけの自分はわかる
点滴は2本
すぐに点滴は1本になった
ICU の中で
目が覚めて
「寝ててはいけないよ」
と看護師さんが言う
やることがないので
ICU の中ではスマホもなかったので
紙と書くものを貸してもらった
神道の自分が行った神社と祝詞
神話を作りたい
それはまだ覚えていたので
ICU の中で
自分の神話を書き始めたけど
「これなんや、ほかす(捨てるの意)で?」
私は言葉を書くことが
一番大事だった 好きだった
失語症になり
左半身麻痺と共に
言葉を忘れていた
「心配です 仲間だから」
そんな同僚からの
LINE があった
「仲間だから」は分かった
同僚からのメールだった
問題だったのは
「心配です」
の「心配」がわからない
「配る」は 新聞少年だったので
新聞を配る という意味はわかった
分からないのは
「心(しん? こころ?)」
これがわからなかった
高次脳機能障害の失語症です
「心配」の「心」って何だろう
わからなかった
相部屋の時
分かった瞬間があった
「心配の(心)」
「心」とは一体何かと思っていたのに
パッとわかった
記憶の領域に繋がった瞬間
「心」の意味がわかったのは
どれだけ千でももっとたくさんの意味があった
そう気がついた瞬間
そして
後遺症の中で
5月の終わりだったと思う
場所は大阪から名古屋 上飯田へ
窓の外には
咲いている花がある
でもこの花が何なのか
何という名前だったかわからない
物体と言葉が繋ぐことはできなかった
1週間後ぐらい
言語療法士の訓練のおかげなのか
パッっと
「あじさいだ‼️」
壊れた脳の領域に
A 地点からB地点に
脳神経細胞の中で
壊れた脳細胞を避けて
バイパスを作って
物体と言葉がつながった
言葉を失った状態で
それでも私は詩を書き始めていた
テニヲハも分からない
誤字だらけの詩を書き始めた時に
間違いの言葉こそ
とても新鮮だと思った
「やった‼️」
今まで探していたのは
自由な言葉だった
言葉は生きている
言葉と今でも一緒に生きている
言葉がなかったら
私は死んでいたと思う
よく64歳まで生きたと思う
64年間
歌と言葉に
心から感謝します
不安な時でも悲しい時でも嬉しい時でも
私は言葉を書けば元気になる
それは中学生の時からだった
今64歳
「言葉はただの道具だ」
「言葉は武器」
この言い方は
あまりにも失礼に過ぎる
それは人間のおごりだ
言葉を大事にしない人は
自分を大事にしていない
と考えます
言葉さん
ありがとう

コメント
コメントを投稿