武満徹 の記事 記録文
🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿 この記事すごく解ります。 未音亭日記 の方。の楽天ブログです。必須で、1時間かなり探しました。 以下。 失礼承知で記録したくて、 コピペさせていただいました。 ありがとうございます。 🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿 武満徹の虚像と実像—没後30年によせて 2026.07.19 カテゴリ音楽 (734) 先週に続き古い新聞スクラップ記事を整理していた亭主、今度はジョン・ケージの訃報(1992年8月)を伝えるA新聞の記事に遭遇。「現代音楽の旗手、作曲家ジョン・ケージ氏 死去」という見出しに続き、当時ニューヨーク駐在の記者だった外岡秀俊氏の署名でケージの経歴が結構詳しく紹介されています。 とはいえ、今回亭主の目を引いたのは、記事に「おまけ」のように付いている武満徹よる以下のコメントです。 人間の生活を芸術化 — 作曲家武満徹さんの話 今年はフランスのメシアンも亡くなって、私たち現代の音楽家にとっても、音楽史上も、大事な人たちを失った年になった。ケージが果たした役は、単に新しい音楽的な美学をうち立てたのではなく、もっと根源的に欧米の音楽芸術のあり方を改めたということだ。欧米が「音楽とはこういうものだ」と、芸術を専制しているところに、国境や、芸術上の境界を取り払うような問いかけを投げかけ、人の生活を芸術化しようとした。東洋の影響もあるだろう。今日のミニマリズム、環境音楽も彼に端を発しているといえる。 亭主も記事をスクラップした当時は、武満やケージを「現代音楽の作曲家」という大雑把な捉え方でしか見ておらず、ミニマリズムや環境音楽がなぜ従来のクラシック音楽の一部として語られのかもよくわかっていませんでした(「昔はものを思わざりけり」)。しかしながら、四半世紀以上の時を経て武満の言葉を読み返すと、そこには武満の音楽観とケージに対する理解についての、ある種の根源的な断絶が浮かび上がってきます。 武満が綴った言葉は、果たしてケージの本質を捉えていたのだろうか。むしろ、武満という作曲家がかかえ続けた「芸術」への強烈なこだわりと、独学者ゆえの孤独な葛藤を露呈させていたのではないか… 折しも今年は武満徹の没後30年という節目の年。音楽メディアでもこの期を捉えて彼の音楽についての回顧記事が散見されますが、それらを斜め読みした感じでは基本...